2011年7月27日水曜日

被爆者に聞く

広島連帯ユニオン地域支部の仲間が大家さんからお話を伺いました。

  • 広島市西区在住被爆者 78才 女性


当時私は12才。父と母と二人で土橋から建物疎開で佐伯郡宮内の方に住んでいました。8月6日当日の朝、父は己斐で働いていました。母は油を松の根から取るために打越の山の方に出掛け、私は宮内国民学校で掃除をしていました。赤い、尋常ではない光がピカット光った。みんな呆然と見ていたら、今まで経験したことのない下から突き上げるような轟音がしました。とにかくみんな防空壕のある山へ逃げていきました。疎開して場所を知らない私は大変でした。昼前頃家に帰ったら母と弟がぼーっと気が抜けた感じでいました。3時か4時頃になったら被爆しているが歩ける人たちが市内から逃げてきました。父は己斐で被爆して帰ってきました。その後、父は命は助かりましたが、髪が抜けたり、下痢をしたり半年以上寝込んでしまいました。その日、避難所に多くの人がやってきました。あの時のことは今でも思い出したくはありません。唇はめくれあがり、すごく臭くすざましかったです。包帯もなく、薬もなくどうすることも出来ませんでした。じゃがいもをすって塗ったりもしました。おにぎりがどうにか食べれましたが何もありません。亡くなった人は、人間としての誇りもない状態で戸板で運ばれ焼かれていきました。

9月が過ぎて地御前の海に泳ぎに行ったところ、舟が沢山出て地元の人が鍬を持って何かを引き上げていました。それは海に流されていた被爆した人の白骨でした。今でも地御前には行く気になれません。

一番印象に残っているのは、外傷もなく元気そうだった友達が急に亡くなったことです。特に被爆した子供たちが沢山亡なっていきました。その原因が内部被曝だったという事は後から知りました。

福島原発で内部被曝について「すぐには影響がない」という発表を聞いて「政府や御用学者はデタラメ」だと思っています。私は弟も白血病で失なっています。弟は入市被爆ですが、被爆当時は何ともありませんでした。発病したのは何年も経った高校二年生の時です。薬もなかった。半年以上入院して少し元気を取り戻しました。その後結婚もして子供も生れ「働かなければ生きていけない」と無理に無理を重ねて病気が悪化していきとうとう7年も入院することになりました。最後は膜という膜から出血して亡くなりました。

私は内部被曝が現実にどうなって行くのかということをこの目で見て来ました。何年も経って弟のように命を奪われるなんて!父は生き残りましたが、弟は失ないました。やはり小さい子供たちが最も放射能の影響を受けるのだと思います。

若い人たちには真実を良く知って核をなくすように頑張ってもらいたいと思っています。国の競争のために捨てることも出来ないほどの核兵器を何万個も作ってどうするのでしょうか。原発もです。だから行動力のある若い人たちに特に頑張って欲しいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿